| 桂皮(けいひ) 1月号/No.92 |
| 「桂皮」とは、桂の木の樹皮のことで、一般的に「シナモン」の名で知られています。15〜16世紀の大航海時代に探検家達が探し求めたスパイスのひとつです。原産国はスリランカで、その他インドやフィリピンで生産されており、世界中の熱帯地方で広く栽培されています。8〜18mに育ち、樹皮は柔らかく、赤褐色をしています。淡い黄色の花が咲き、濃い青色の果実がなります。収穫は雨期に行い、スリランカでは、5〜6月、及び10〜11月となります。一番最初に収穫した樹皮は厚くて質が劣り、はがしとる回数を重ねるごとに、良い質のものが採れるようになります。尚、桂皮はユダヤ教の戒律「トラハ(torah)に初めて名を残している薬用植物で、風邪や消化器系の症状に効果があります。また、ほのかな甘味と独特のかおりがあり、日本では八つ橋やニッキ水などに用いられます。 世界中で活用度が高く、古代より親しまれている薬木。そんな自然の恵みでもある桂皮をこれからも私たちで守っていきたいものです。 |
| 白檀(びゃくだん) 2月号/No.93 |
| 「白檀」とは、ジャワ島からチモール島にかけて分布するビャクダン科の常緑小高木です。中でもインド南西海岸に近いマイソール地方は、白檀地帯と言われるほど有名な産地で、良質高価な白檀を産出しています。初めは独立して生育しますが、後に吸盤で寄主の根に寄生する半寄生植物です。幼樹の頃はイネ科やアオイ科、成長するにつれて寄生性も高まり、タケ類、ヤシ類などへと移り、寄生の植物は140種以上数えられます。多種によって生長するのですから、自然が豊かでないと育たない植物だといえるでしょう。それでも絶滅の危機にないのは、政府の保護下に置かれるほど有用性の高い植物だからです。5月頃、黄色や紫色などの小さな花を開き、心材や根には利尿や強壮、解毒・殺菌などの焼薬用効果があります。さらに、仏教やヒンズー教の寺院の建造物、仏像、香木など、多用に利用されています。尚、インドでは紀元前から高貴なものとして珍重され、今も葬儀には欠かせない香木であり、かなりの量が消費されています。 |
| 丁字 3月号/No.94 |
| 丁子はインドネシアのモルッカ諸島が原産で、「クローブ」という名前のスパイスとしても知られています。「丁子」という名前は、つぼみの形がアルファベットの"t"の字に似ていることから名付けられました。また、つぼみが爪の形にも似ていることから、"爪"の意味を持つ「clove」が英名としてつけられました。丁子は熱帯地方に見られ約10mにまで成長する常緑小高木です。樹木が成長するまでに20年費やしますが、その後は50年にわたり花を咲かせつづけます。丁子のつぼみは紅い花を咲かせますが、生薬として用いられるため、花を開くことなく、つぼみのうちに採取されてしまいます。丁子の用途は幅広く、スパイスとされる他、消化促進や風邪薬などの薬として用いたり、歯科では丁子油を虫歯の治療に利用します。また、香料としても用いられ、「丁子」または「丁子香」とも呼ばれます。丁子を料理に用いるなどして疲れた体を元気付けてみてはいかがでしょうか? |
| 霊芝 4月号/No.95 |
| 霊芝は、サルノコシカケ科マンネンタケ、またはその近縁種の子実体を乾燥した植物です。中国や日本に産し、『日本書記』にも登場するなど、古くから瑞草として珍重されてきました。「赤芝」「黒芝」「青芝」「白芝」「黄芝」「紫芝」の6種があり、紫芝以外は、それぞれ心・腎・肝・肺・脾の五臓に効果があると云われています。マンネンタケなどは、産出時期、あるいは寄主により傘の色が変化するのです。尚、現在用いられるのは紫芝と赤芝がほとんどで、強壮、鎮静に効果があります。また、民間薬として、不眠症や消化不良などにも用いられます。江戸末期に書かれた『福草考(さきくさこう)』にも霊芝にまつわるエピソードが記されています。顕宗天皇(485〜487)の時代に、宮庭に茎が三枝に分かれたマンネンタケが生え、これを天皇へ献上すると大変喜ばれ、献上者にさえぐさべのむらじ三枝部連という姓を与えました。これが今日のさえぐさ三枝という姓の由来と云われています。 |
| ワートル薬性論 5月号/No.96 |
| 原典は、オランダ人のハンデ・ワートルによって書かれた薬物書です。それを林洞海(はやしどうかい)が翻訳し、安政3(1856)年に刊行したのがこの「ワートル薬性論」です。洞海 は、長崎でオランダ医学を学び、江戸の医師、佐藤泰然に師事します。そこでこの薬物書を見つけたのです。従来の薬物書が辞書的に記述されてあったのに対し、この書では、薬物を薬効にて分類しています。第1巻で緩和剤、第2巻で収れん性止血防腐剤、第3巻では強壮解熱剤と続き、附録では、鉱泉についても述べた、21巻18冊の書物です。洞海が翻訳してから、医学館による刊行の許可を得るまでに16年もを要するという曲折を経た後の発刊でした。しかし、発刊後の日本における西洋薬物学の進歩に貢献した洞海の功績は大きく、長い年月をかけても発刊すべき価値ある書物であったと言えるでしょう。 |
| 六物新志 7月号/No.97 |
|
「六物」とは、一角(ウニコウル)、夫藍(サフラン)、肉豆蒄(ニクズク)、木乃伊(ミイラ)、噎浦里哥(エブリコ)、人魚の6種の薬物のことです。そして、これらについて天明6(1786)年、大槻玄沢(おおつきげんたく)が蘭書に基づいて考証したのが「六物新志」です。玄沢は、杉田玄白や前野良沢に師事した蘭学者でした。江戸時代、日本に渡来した頃の蘭方医学はあやふやな知識でしたが、玄沢の解説によって、「六物」はより正確なものとなります。それまで陸上に棲む犀(サイ)の角と考えられていた一角は、一角魚の歯牙であると判明しました。また、ミイラについても没薬(゛ミルラ゛という植物)とされていたのを、人の死屍(シカバネ)と明らかにしました。ただし、人魚像に関しては、美しい女性の上半身に、下半身は魚体という姿を玄沢は信じていたようです。 次々と明らかにされてきた六物。しかし霊薬とされる六物の神秘は、すべてを知れぬまま謎にしておきたい気もします。> |
| 売薬版画 7月号/No.98 |
| 「配置売薬」の事を考える時、その独特の販売方法はもちろん、売薬さんのお土産や、薬袋などの印刷物にも想いは巡ります。売薬さんが持ってくるくすりは、"身体を癒すもの"であるだけでなく、"目にも楽しい"ものだったからです。その中でも、全国にお得意さんを抱えていた富山売薬は、くすりの文化と共に印刷物の文化も大変栄えていました。その印刷物の中でもひときわ目を引くのが、江戸後期から作られた「売薬版画」です。当時「にしきえ錦絵」とも呼ばれたその多色刷り版画は、色美しく華やかで、日本の名所や人気役者を描いた浮世絵の様なものでした。それらの作品は、版画を扱う版元や彫師など、富山の職人によって生み出された「富山の版画」でした。これがお得意さんの家にお土産として配られていたのです。今も続く「おまけ商法」は、ここから生まれたと云われています。くすりは科学的な力を持って病気を癒してくれます。しかし、売薬版画に描かれるものもまた、不思議な力を持って病気を癒す力となってくれます。売薬版画は単なる「おまけ」ではなく、それ自身もまた、「くすり」だったのかもしれません。 |
| ワートル薬性論 8月号/No.99 |
| 日本における医薬の祖とされる神様は、大国主命(おおくにぬしのみこと)と、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。 この二人の神様は、国造りを進めながら、医薬やまじない、酒造りなどを開発し、人々の為に尽くしたといわれています。二人はそれぞれ各地の神社で祀られており、東京の日本橋には、両神を祀った「薬祖神社」があります。日本橋本町といえば江戸時代より薬種で栄えた『くすりの町』。この神社では、毎年10月17日に「薬祖神祭」が行われ、多くの人々で賑わいます。お祭りでは「神壷」という縁起飾りが配られます。別名「おけら笹」とも呼ばれ、昔の薬壷(やっこ)をかたどったものが笹に結ばれています。そして、壷の中には、薬草であるおけらと紅白の餅が入っており、立春の日にそのおけらを火にくべ、さらにその火の中で餅をあぶって食べると、その年を健康に過せると云われています。 |
| 鍾馗 9月号/No.100 |
|
鍾馗とは、疫病や魔をはらう神様です。もともと、鬼を追い払う小槌のことを「終葵(しゅうき)」と呼んで魔除けとしていました。これを擬人化し、神格化したものが鍾馗と云われています。鍾馗についてのこんな話があります。中国、唐の時代、玄宗という皇帝が鬼たちに悩まされていると、そこに鍾馗が現れ、鬼たちを退治してくれたのです。夢から覚めると皇帝の病気は回復していました。その後、皇帝は鍾馗の姿を画に描かせ、魔をはらう神様として広く民衆に伝えられました。 また、鍾馗は日本でも古くから知られており、江戸時代から端午の節句に取り入れられています。こいのぼりと共に掲げられるのぼりには、大きな目と立派なひげを持った鍾馗の勇ましい姿が描かれています。古い京都の町並みにもまた、家の屋根に小さな鍾馗の像を見つけることができます。生活の中に登場する鍾馗は、親しまれながら語り継がれ、身近なところで私たちを守り続けてくれているのです。 |
| 種痘器具 10月号/No.101 |
| 「種痘用具」とは、牛痘法(1796年 イギリスの医師エドワード・ジェンナーが牛痘法を用いて種痘実験に成功)に使われた用具です。人類は大昔から天然痘に苦しめられてきました。日本でも江戸時代の死因の第一位を占め、幕末には国民の1/3に痘痕があったといわれています。その天然痘に寛政2(1790)年、初めて人痘法(鼻乾苗法)を施したのが、筑前秋月藩の緒方春朔(1748〜1810)です。人痘法とは、乾燥した痘瘡のカサブタを粉末にすり潰したものを、銀管、または竹筒で鼻腔へ吹き入れ、天然痘ウィルスを人へ接種する方法でした。この方法に、植えつけられた生命の危機、周辺へのウィルス散布による感染の危険性があったことは否めません。しかしこれは、予防医学の誕生であり、緒方春朔の功績が、現代の予防医学(免疫法)、つまり予防ワクチンの発見へと繋がることとなったのです。「上医は未だ病まざるのに治す」との彼の言葉が、この種痘用具から聞こえてくるようです。 |
| 梅 10月号/No.102 |
| 梅は古い時代に中国より伝わり、春を告げる花として人々から愛されています。観賞用に300種以上の品種があり、花も純白から赤く色づくものまでさまざまです。名前は「烏梅」の中国読み「ウメイ」からきています。12月頃から咲き始める梅の花は3月頃まで楽しむことができます。実りは6月。この時期の長雨を"梅雨"と呼ぶのは、梅の実がこの時期に熟すためです。梅は薬用として利用でき、実のさっぱりとした酸味は咳を静め、熱を下げるだけでなく、疲労回復や健康維持に効果があります。梅酒は健康酒ですし、梅干も黒焼きにして風邪に用いたりと生活の中で生かされています。また、そんな梅を愛した人も居ます。「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」。菅原道真が都から遠く太宰府に旅立つときに愛しんだ梅のために詠んだ歌です。道真を慕い、遥か大宰府の地に花を咲かせた梅の花は、今も「飛び梅」と呼ばれ、純白の花を咲かせています。遥か昔から愛されている梅は、これからも私たちに春を知らせる甘い香りと、やさしい花を見せてくれることでしょう…。 |
| 禹余糧 12月号/No.102 |
|
「生薬」とは、植物や動物、鉱物など、自然の中にある薬の原料の事です。当博物館の2階展示室には約100種類の生薬を展示しており、その中の一つに「禹余糧」があります。禹余糧は中国産の鉱物性生薬で、褐鉄鋼の一種の殻の中に粘土を含んだものです。この粘土に水酸化第二鉄のある状態のものが混ざり、禹余糧は褐色や黄色となります。また、禹余糧は方言で「鳴石」「鈴石」とも呼ばれています。殻の中の粘土の塊や、これに混ざった小石、砂などが乾燥し、振ると鈴の様な音を発する事から、この名前で呼ばれるようになりました。時に水が混ざっていることがあり、その場合は、通称「水入鳴石」と呼ばれます。禹余糧の日本での初めての記載は、東大寺正倉院に納められている「種々薬帳」(756年)にあり、遣唐使によって日本に入ってきました。中国で主に採集され、収斂、止血として、慢性下痢、血便などに用います。
Copyright(C) 1997 中冨記念くすり博物館 all rights reserved. |